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主にリハビリの日々を書いてます。早く歩けるようになれますように!

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その③

 最後に代表理事の方の話。この方は普通に健康な人なのだと思うけれど、障害のない人がどのように活動をしていけばいいのかということを考えている。富士山に登るのもこの人が企画したらしいのだが、今となっては完全に自分のエゴだった気がすると言っていた。というのは最初は彼女は拒否したらしく、それに対して憤慨というか登らしたろって言っているのに何で断るねん、と考えていたらしい。その人の病気を理解する気もなく、病名も知らず、完全におせっかいで恥ずかしい行為だったと言っていた。だから障害のない人が障害のある人をサポートするにはまず、色々知ることが大事だと言っていた。介助と介護の概念が違うという話と、先日ドイツの福祉機器展とフィンランドに彼女と行ってきたらしいのだが、フィンランドなんかは福祉先進国と言われていても実は段差がたくさんあって、日本よりずっとバリアフリーになっていない。でも心のバリアフリーが浸透しているから、みんなすぐ助けてくれる。車いすだけじゃなくて、普通に杖ついているおじいさんおばあさんに対してもみんな当たり前のようにドアを開けている。そういった身体的な介助でなくて、心の介助も必要なのではないだろうか。自分がNPOでしようとしていることはおせっかいだったら言ってほしい。けれど障害だったり難病の人が色々チャレンジしたいと思っているけど実際は道筋やフィールドがなかったりする。だからそのフィールドを用意することが大切なので、そういうことをしていきたい。そのフィールドを利用するかしないかは本人にまかせる。だからこんなことしたいあんなことしたいというのがあったら言ってほしい。家族だけで出来ることとNPOなどを通じて出来ることは違うのでそういう提案をもらえたらと思っている。

とのことで時間を少しオーバーして終了。そうか~エゴかぁと私も色々考えてしまった。ただ本当にフィールドを敷くっていうのは大切だと思うので、そういうところで助けてもらったらっていうのは私も思う。

そんなわけで遠かったけれど、講演に行って良かった。
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その②

 次に話した方は遠位性ミオパチーの女の人の話。色々な雑誌に出たりしていて有名な人で、私も去年の冬くらいからその人の出てる記事を読んだりブログを読んだりして、この方の話を聞きに行ったといっても過言ではないのだが、前から素敵な人だなーと思っていたのだけど話を聞いて、より好きになったというか、応援させてもらいたいと思うようになった。そして自分も頑張らねば・・・と。話もとても上手くて、物腰も柔らかくて、伝え方が本当に上手かった。だから彼女の話を聞いて私自身泣いてしまったし、周りからもすすり泣きが聞こえた。ともかくその話。

 遠位性ミオパチーという名前について、遠位性とは心臓から遠いところ、ミオとパチーはギリシア語でそれぞれ筋肉、病気という意味らしい。つまり心臓から遠いところから進行していく筋肉の病気ということ。日本には大体120名くらいなのだが、潜在的には5-600人いて、世界では1200人くらいいるんじゃないだろうかとのことらしい。ミオパチーの中には筋ジストロフィーとかそういった他の筋肉の病気も大義には含まれるものであって、その中でも色々な型があり、彼女は空胞(くうほう)型というらしい。これは筋肉に穴が空いていくというものらしい。

 そして発症からの経緯、とのことで、彼女は元日航のスッチーだったのだけれど、初期症状としては指先に力が入らないということだった。ペットボトルのふたが開けれなかったり、紙パックの口を破ることができなかったりそういうことが出来なかったけれど、単に疲れかな、もっと筋トレしなきゃいけないな、でそのままにしておいた。体力のいる仕事だから毎日帰ったらもう疲れて眠るような生活を繰り返していた、そのまま放置していて2年後にはもう手すりが無いと階段を登れなかったり、少し歩いただけで汗が出たりするような体になっていた。そこで初めて異変を感じて病院にいき、血液検査をすると、CPKという筋肉の数値が一般だと200くらいなのに900になっていた。でも健康な人が運動をしても上がるような数値なので、大丈夫だろうと自分は思っていたが、もっと大きな病院に行って検査入院することになった。そこではあらゆる検査をした。筋電図というような足に刺したはりに電気を流すような検査はとても痛かった。そしていよいよ告知という前の晩に父が自分の病室に来た。父がわざわざ京都から東京の病院までこなくてはならないということで、尋常ではないということが分かった。告知は父と2人で聞き、先生からはA4の用紙が渡された。そこには遠位性ミオパチーという病気であること、どんな症状がでてくるかということが色々書いてあったのだが、自分はただ最後に書いてあった一言が目に焼き付いている。それは「約10年前後で歩行困難になる」とのことだった。自分はその先が知りたかった、先生は専門外だったため「正直私にもわかりません、しかし想像はつきます、やがては寝たきりになるでしょう」と言った。その時は不自由はあれど、色々なことが一人で出来たしまだ実感は出来なかった。とにかく頑張っていくしかないと思うのが精一杯。親はすぐにでも京都に帰ってくるように行ったが、東京に残りそれから3年間一人暮らしを続けた。でも一人暮らしは買い物も炊事も洗濯もすべてのことを自分でしなければならない。やがて杖をつくようになってもフラットなところでもこけるようになった。その時は自分がもう恥ずかしくて、そして情けなかった。手を差し伸べてくれた人の顔もみることも出来ず、だからといって手を借りる勇気もない、いこじになって「大丈夫です」と言ったり。スーパーの中でこけた時はゴンドラの端をもってようやく立ち上がるような感じだった。それから三年後、車いすでしかもう動けなくなっていた。仕事を辞め、京都に帰って過ごすようになったのだが、ある日妹が「お姉ちゃん、私も最近指先の力が入りにくくて」と言ってきた。急いで病院に行きなさい、と言い妹も色々な検査をした。時間がかかった。そして妹も最終的には遠位性ミオパチーである、と診断された(ミオパチーの患者会のHPをみると、遺伝子的に関係があるらしいです)。今は2人で頑張っているけど、妹はまだ色々動ける。妹の告知を受けて、その時に初めて、頑張っていかなければならないと思い、生きることって何なのか自分に問うようになった。そして負けたくないと思った。病気に対して、自分に対して、自分をみる周りの目に対して、世間に対して負けたくないって思った。そして病気になってからの第二の人生として、SORDの活動とのご縁を頂き、今の私に出来ること、病気の私だからこそ出来ること、研究すらされていない難病のために活動したいと思った。病気になると情報が不足して孤独になってしまうので、そういうのを避けたい。私はまだ楽しむことを諦めたくない。これから楽しんでいけるということを諦めたくない。去年の7月には17名の子供たちと一緒に富士山に登らせてもらった。心の中に不安はあった、出来るかわからないし、人の手を借りることに抵抗があった。遠慮してしまうし、申し訳ないと思った。けれど、人の手を借りることで自分の可能性が広がるんだなと思えるようになった。色々な人のおかげでここまで出来たから、周りの人に感謝したい。これからの人生も色々なことに挑戦したい。生きるということは死なないでいるということではないし、全く違うと私は思う。生きるということはあきらめないことだからだ。私はこれからも楽しいことをしてしていきたいと思う。そして希少難病の方が色々なことに挑戦できる態勢を作っていければ、と思う。

 とのことだった。私は聞きながらメモ取ってたのですが、感動っていったら失礼かもしれないけど、本当に偉いなぁと心底思った。同時に色々なことが出来なくなっていく恐怖感を感じたし、そういうのも色々乗り越えておっしゃってるんだなと思った。特に人の力を借りることは私も戸惑ってしまうのだが、借りることで自分の可能性が広がるっていうのは、ああそういう考え方もあるんだなあと思った。彼女は今はもう手がわずかに動く程度で車いすをこぐ力がない。足もほとんど使えないのにこの話を、紙も何も見ずにずっと笑顔で力強く語っていらっしゃったので余計・・・。ここまで1時間強。
 

 長いので3つにわけます

その①
 
 この前SORDっていうNPO法人希少難病患者支援事務局の人たちの話を聞きに京都まではるばる行ってきた。かつては大学がその辺だったので遠かったのだが、久しぶりに行くと本当遠く感じる。京都駅には新しいパティスリーが出来ていたり本屋が無くなったりで様変わりしていたけれど、なんとなく京都って独特の雰囲気があると思うし、やはり好きである。足が悪くなる前に行ったからおおよそ2年前くらいに行ったっきりかもしれない。

 話は京都市地域リハビリテーションセンターってところであったのだけれど、ここは身障者のための病院もかねていて整形外科なり器具室なり色々ある。その中で体育館があり、定員150名って書いていたけれど実際そんなに来るのかな?と思ったらかなりの満員で椅子が足りないくらいだった。奥に小学生50人くらいと磁器をしている人のための席、あと一般席が設けられていた。こういうセンターだからか、車いすの人が本当に多く、凄く不思議な光景に見えた。

 最初に話したのは立命館の大学院生の男の人で、頸椎損傷の人だった。高校の時にラグビー部の練習でそうなって、それから今まで首から下は全く動かないとのこと。手も動かないので車椅子の後ろに点滴の棒のようなものを立ててそこからアームが腕に伸びていてそれでパソコンなどを打ったりしているようだった。私は立命館はマンモスで先進的な大学だと思っていたのに、その人が入学した時はまだ障害のある学生の支援をする制度が全く整っていなくて、ノートテイカーや身体介助は3回生になってからやっと行われたらしい。その方は病気で車いすの人とかで、車いすが自分でこげるって人ではなく、もう全くこげないし着替えるにも風呂入るにも24時間のサポートが必要な人だから、彼が大学に通うって本当凄く努力がいることだと思うし、別にそれを達成できなかったとしても誰も責めないだろうと思った。けど、障害を負ったからといって本質が変わってないから車いすになったとしても諦めきれない、だから今自分に出来ることを諦めないっておっしゃってて、本当敬服する。大学でも福祉を専攻しているとのことで障害者自立支援法についても意見を持ってらっしゃって、今の支援法は障害の程度が重い人ほど負担を強いる仕組みになっていてそれはおかしい、と。それに制度によって生かされているだけの存在では自分は決してない、とのこと。こういう体になってからは友人とお茶飲みにいくにしても、そこのメニューが美味しい美味しくないではなく、まず店の前に段差がないかが一番のポイントで、服を決めるにもデザインじゃなくて、車いすで長く着ても大丈夫かなど、視点が全く変わったとのこと。そして京都ではバスがどこへ行くにも便利だが、その中でノンステップバスは本当に一握りで、時刻表にいつそのバスがやってくるかは書いていないから何本も見送らなければならないっておっしゃてて、本当にそうだなぁと思った。私も杖ついている時は、靴を脱いで一間があがるお店は無理だと思って、味よりもそういう判断基準で店を選んでいた。この辺は本当にそれを実感した人でないと分からないと思う。もちろん彼は私なんかよりもずっと苦労されて、それゆえずっと努力もされてきてるわけだが・・・。今も体が少しでも動けるようにと毎日リハビリをされているようで、色々なリハビリ法のスライドがうつっていて、膝にバンドをまいて、足裏でペダルを漕ぐのは私の真似してみようかなあと思った。ここまで30分。
 

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